毎年京都の風物詩といえば、京都祇園祭・・・ここでは、「祇園祭・山鉾&飾りの由来・歴史(いつから&どこから)そして名前について扱いたいと思います。
京都祇園祭のメインイベントともいえるのが、「山鉾巡行」であることは疑問の余地ないでしょう。その各山鉾の趣向や華麗さは素晴らしく、見る者を圧倒しますよね。
さて、その京都祇園祭で巡行する山鉾とその飾りの由来が一体”いつから”また”どこから”始まったものなのかをご紹介します。
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祇園祭・山鉾&飾りの由来と歴史(いつから&どこから)
祇園祭で巡行する山鉾ですが、その魅力の一つは、山鉾を飾る華麗な織物、染め物、彫り物、金物といった、豪華で素晴らしい工芸品の数々で飾られている点ですね。
室町時代~
山鉾そのものの歴史は、1000年以上昔にさかのぼります。いつから現在のような絢爛な山鉾になったのか、歴史的にみてもはっきりとしたことは分からないのですが、今からさかのぼること室町時代(14世紀中頃)には、山鉾の鉾や造り物の山がすでに華麗で高大なものであったことが言い伝えられています。
当時の言い伝えによると、「祇園祭の山鉾の巡行の際には、町は見物客であふれた」とのことですので、当時の人々を楽しませた行事だったことが分かります。
ちなみに、1467年に起きた応仁の乱の影響で一時祭りが行われなくなり、山鉾の巡行も中断しました。
当時の応仁の乱が京都にもたらした被害は甚大で、寺社、公家、武家屋敷があった上京が焼けたことで、京都は文字通り”焼け野原”になりました。
ちなみに、京都はで焼け野原となる一方、第二次世界大戦では京都は空襲を経験しなかったたま、現在京都人が「この前の戦争で」という表現をする場合、その「戦争」が応仁の乱を指すというジョークがあるほど・・・。裏返せば、応仁の乱の被害がそれだけ大きかったことが分かります。
さて、応仁の乱が起きたため、祭りが中断した時期はあったものの、16世紀の中頃に再度行われるようになりました。
ちなみに、現存する京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)」には、当時の山鉾が描かれていますが、現在の山鉾とその基本的な構造においての違いはほとんどありません。
もちろん、今の山鉾のそれと比べると、懸装品がシンプルだったりします。
江戸時代以降
その後、江戸時代になると、泰平の世の入り、人々は平和な時代を享受するようになります。その影響は山鉾にも表れており、懸装品はより豪華になっていきます。
しかしながら何度か起こった大火で、山鉾も被害を被ったものの、都度、地域の復興に伴い山鉾へも新たな懸装品が加えられるようになっていきます。
江戸時代の時代背景を示すものとして、山鉾の懸装品の中には、舶来物の懸装品もあります。
たとえば、「鶏鉾」の”見送”の部分には、16世紀のベルギー・フランドル地方で製織された飾毛綴が使われていたり、「函谷鉾」の”前掛部分”には経緯に羊毛を使った飾毛綴ともよばれるベルギー製の壁掛けとなっていたりします。
祇園祭りの山鉾がユニークな点
祇園祭で巡行する”山鉾”がユニークなのは、ある懸装品は旧来からありつつも、懸装品のいくつかは経年劣化により都度修繕されたり、新たなものと交換されることで、新旧様々な懸装品で成り立っている点。
ですので、山鉾巡行の際に、なんとも独特の雰囲気を感じることも・・・。理由はそのあたりにもあると考えられます。
いずれにしても、時代の流れの中で、常に修復と新調を繰り返してきたのが山鉾の歴史を感じますし、それを守り続けてきた山鉾の町内の人々の努力がうかがい知れますね。
まとめ
祇園祭で巡行する山鉾は、一つ一つにそれぞれの町内の人々の想いや後代に伝えようという努力を感じますし、見ごたえ十分ですね。
時代時代の人々の「温故知新」の想いが込められているのが、山鉾といっても良いでしょう。
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